• 弁護士中澤 佑一

アイデンティティー権

 各種報道もなされているところですが、私が担当しているSNSのなりすましに対する発信者情報開示請求訴訟において、大阪地裁が「アイデンティティ権」という新たな概念に言及する判決を下しました(大阪地方裁判所平成28年2月8日判決。 なお報道では「アイデンティティー権」と延ばして発音されていますが判決では「アイデンティティ権」となっています)。

 しかし同判決は「アイデンティティ権」という概念を認めつつも、結論としては「アイデンティティ権」の侵害を否定しており、残念ながら同判決を先例として権利救済が一気に前進するというようなものではありません。同判決は「アイデンティティ権」という概念を用いて、なりすまし行為自体が違法となりうる場合があることを肯定したという点において意義があるものと考えておりますが、逆になりすまし行為自体が違法となる場合を厳格に解しすぎている部分もあります。

 本記事では紙面の関係上報道されなかった部分も含めて、従来議論との違いや大阪地裁判決の内容について簡単に解説したいと思います。なお、「アイデンティティ権」は近刊の『最新 プロバイダ責任制限法判例集』の編集会議におけるネット上でのなりすましに関する裁判例に関する議論の中で生まれた概念であり、詳細はこちらの書籍をお読みいただければ幸いです。

なりすましに対する従来の判断枠組み

 なりすまし事案に対する従来の裁判実務の枠組みとしては、名誉権、プライバシー権侵害を検討することが一般的でした。つまり、「Aさん」になりすましながら「今日◎◎で万引きした」と投稿する行為を、「Aさんが万引きをした」との事実摘示がなされたととらえて、社会的評価の低下による名誉権侵害を検討する枠組みです。

 また、氏名権・パブリシティー権と呼ばれる「氏名,肖像を第三者に使用されない権利」(東京高等裁判所平成14・9・12(判タ1114号187頁,判時1809号140頁。ダービースタリオン事件控訴審判決)も認められてきました。

 

 従来の枠組みは、なりすまし後になされた行為の問題をとらえる(名誉毀損)、もしくは、なりすましの態様の一部をとらえる(氏名冒用)というもので”なりすまし行為”自体が合法なのか違法なのかということは裁判上真正面から議論されてこなかったと思います。 

 

従来の枠組みで救済できない類型

 しかし、なりすまし行為において必ずしも氏名や肖像の冒用がなされるとは限りません。これらが伴わない態様でなりすましがなされ、かつプライバシー情報にも当たらず、社会的評価を低下させるようなものでもない発言のみがなされているケースにおいては、名誉権・プライバシー権・氏名権・パブリシティー権、いずれの侵害も認められません。今回の大阪地裁判決の事例でも、従来型の権利侵害として、名誉権・プライバシー権・肖像権は主張しているものの権利侵害は否定されており、端的になりすましが違法か否かが争点となっています。そこで、”なりすまされない利益”を理論化し、そのような人格的な利益が存在するのかしないのか、存在するとしてその権利の侵害があったのかを真正面から議論するために新たな概念として「アイデンティティ権」を用いた判断枠組みを今回の裁判では提唱したのです。

大阪地裁判決の位置づけ

判旨

  大阪地裁判決では、まず、問題の投稿およびアカウントが”なりすまし”に当たるか否かを検討し、これを”なりすまし”であると認定したうえ、順次原告が主張する各権利侵害の有無を検討しています。そして、名誉権・プライバシー権・肖像権の侵害を否定し、最後にアイデンティティ権について、そもそも一般論としてそのような権利があるのかというレベルから検討をしました。そして、「確かに、他者との関係において人格的同一性を保持することは人格的生存に不可欠である。名誉毀損、プライバシー権侵害および肖像権侵害に当たらない類型のなりすまし行為が行われた場合であっても、例えば、なりすまし行為によって本人以外の別人格が構築され、そのような別人格の言動が本人の言動であると他者に受け止められるほどに通用性を持つことにより、なりすまされた者が平穏な日常生活を送ることが困難となるほどに精神的苦痛を受けたような場合には、名誉やプライバシー権とは別に、「他者との関係において人格的同一性を保持する利益」という意味でのアイデンティティ権の侵害が問題となりうると解される。」と述べ、原告が主張するアイデンティティ権の存在自体は肯定し、なりすまし事案における新たな判断枠組を採用し得ることを明らかにしました。

 しかし、アイデンティティ権が侵害されたか否かの判断においては、なりすましの態様や期間が長くとも1か月余りの間であることといった事情を考慮しつつ「損害賠償の対象となりうるような個人の人格的同一性を侵害するなりすまし行為が行われたとは認めることはできない。」として権利侵害を否定しています。

判決のとらえ方

 大阪地裁判決の特徴として、一般論としてなりすましが違法となりうることを肯定しつつも、具体的結論としては違法ではないとしたことがあります。

 従来理論ではなりすましの違法性を、名誉やプライバシー・氏名といった別概念の侵害でとらえるいわば質的な検討であったのに対し、同判決はなりすましの「程度」を問題にし、軽微ななりすましであれば<合法行為>、程度の甚だしいなりすましであれば<違法行為>と分類したと読むことができます。

 大阪地裁判決が従来理論を超えて「なりすまされない権利」を認めたか?という問いに対しては、「一部認めた」というのが正確なところでしょう。

 もっとも、従来は検討されてこなかった、なりすまし行為によって害される(名誉やプライバシー以外の)人格的利益そのものについて真正面から取り上げ、これについて「アイデンティティ権」という新たな概念に言及しつつ一つの判断を示したという点については、意義があるものと思います。

今後の課題

 大阪地裁判決では、なりすましは<違法ななりすまし>と<合法ななりすまし>という2つに分類されることになりますが、個人的な感覚としては他者になりすましその人格的同一性を害する行為が合法とされる余地があることには強い違和感があります。その意味で「なりすまされた者が平穏な日常生活を送ることが困難となるほどに精神的苦痛を受けたような場合」という大阪地裁の規範は厳しすぎるのではないでしょうか。ここまで厳しく解せずとも損害論による調整やなりすましか否かの認定を厳格に解することで実際上の不利益は生じないものと思います。

 なりすまし自体が違法であると端的に認め、「人格の同一性が偽られている」と受け止められる場合には,アイデンティティ権を侵害するとして違法性を認めるべきではないでしょうか。本件の控訴審も含め、今後の同種の事例において議論が積み上げられてゆくことを期待したいと思います。

弁護士ドットコムニュースに別角度からの解説を寄稿しましたので合わせてお読みください。